江利子は休憩室のソファに座って高く足を組んだまま右手に持ったブラックコーヒーを一口飲んだ。 飲んで、山根を見て言った。 「なあに?」 山根はドアの前に突っ立ったまま、非常にぶっきら棒に言った。 「お願いがあってきました。」 山根は緊張すると口調がぶっきら棒になる。小学校の時に初恋した女性担任教師に対してもそうだった。その女性担任教師は山根のぶっきら棒な口調を聞くと、決まって、笑顔を作ってくれた。山根はその笑顔を見てようやく落ち着くのだった。 江利子は山根のぶっきら棒な口調を聞いて、初恋の女性担任教師と同じように笑った。そして、笑顔のまま言った。 「どんな、お願い?」 山根は江利子の笑顔を見てようやく落ち着いた。そして、ドアの前に立ったまま事情を説明した。 事情は簡単である。 昨日、山根は自分が担当するパートナーストアーのオーナー達数人と販社で簡単な会議をした。その会議の後、パンチ室の見学をして貰った。そして、オーナー達から、是非、江利子を食事に誘って欲しいと頼まれた。 それは、江利子にとっては極めてありがちな事情である。 山根は先輩社員達から、江利子はこの種の誘いにはめったに乗らない女だと聞いていた。 しかし、山根は江利子に断られても、断られましたと正直にオーナー達に伝えればいいと思っていた。だから、何の飾りもなく正直に手短に事情を話した。最後に山根は、今月、このオーナー達の店に少し押し込みをしたいという自分の目的まで正直に話した。 「ふーん・・」 と、言いながら、江利子は煙草に火をつけた。そして、江利子は顔を上げて再び山根を見た。 左手に外国煙草、右手にブラックコーヒー、少し小悪魔的な顔立ちにさりげない化粧、趣味のいい大人のスーツ、グラマーさを想像させるボディーライン、時々ガラス越しに見ているクールなキーボード操作の記憶。 久しぶりに見る知的で美しいものが山根の目の前で笑った。 「あなた、押し込みは良くないって井上課長に言ってビールをかけられたんじゃないの?」 「え!」 何でそんな事知ってるんだ?と山根の顔に書いてあった。 江利子はまた少し笑った。 「まあ、いいけど、で、あなたも行くの?」 「はい、勿論、担当ですから。」 「ふーん」 江利子はソファから立ち上がってドアの前に突っ立っている山根のところまできて山根の顔を見上げた。 小悪魔的な顔が山根の目の前にある。ビキューのものではない少し怪しい香水の香り。左手に外国煙草、右手にブラックコーヒーの入った紙コップ。 山根は一瞬、紙コップに入ったコーヒーを顔にかけられる予感がして体を硬くした。でも、何となく、それなら、それでいいと覚悟して目を閉じた。江利子の薄いピンクの唇が山根の右耳に触れそうなくらいに近づいた。そして、ゆっくり動いた。 「じゃあ、行って・あ・げ・る。」 「あ・げ・る」の一文字一文字が暖かい風になって山根の右耳に入ってきた。そして、その風は山根の体の中で温度を上げて山根の心と下半身を熱く吹き抜けた。 山根はびっくりして目を開けた。 その時、休憩室のドアが開いてパンチャーが二人入ってきた。 山根はあわてたが、江利子は笑いながら、「あ・げ・る」とささやいたばかりの薄いピンクの唇に外国煙草をくわえた。そして、細く薄い煙を山根の顔の反対側に流した。 二人のパンチャー達は何かを感じて遠慮して出て行こうとした。江利子は落ち着いた口調で二人のパンチャー達に言った。 「あら、いいのよ。ウチのホープ君にお客様の前で煙草を吸うときの吸い方を教えてたんだから。」 そう言うと江利子は山根の方に向き直った。再び、江利子の唇が山根の右耳に触れるほど近づいた。その唇が又ゆっくりと動いた。 「山根君、分かった?煙は相手の顔の反対側に出して、あ・げ・る、よ。」 再び、「あ・げ・る」という江利子の息が暖かい風になって山根の右耳に入ってきた。 一週間後、山根は新宿のちょっと高級な中華料理屋の個室で宴席を開いた。 山根はこの宴席に、高円寺で「マキ化粧品店」を経営する真樹社長を初め、山根が担当するエリアで化粧品店を経営するオーナー達四人を招待した。この四人の化粧品店オーナー達が江利子と是非飲みたいと山根に無理強いした「いい女好きのオーナー達」である。 そんなオーナー達のために、江利子は三人のパンチャー達をこの宴席に連れて来てくれた。 江利子が連れてきたパンチャー達はいずれも二十代前半のかわいい系の女の子達であった。彼女達は予め江利子から言い聞かされていた通り、礼儀正しくなおかつフランクに場を盛り上げてくれた。 江利子自身は連れてきた三人の女の子達とは明らかに異なる大人の盛り上げ方で四人のオーナー達を楽しませてくれた。 宴席は非常に盛り上がった。 江利子は真樹社長に紹興酒を何度も注いだ。真樹は気持ちよく酔っ払ってご機嫌である。 「いやー、酔っ払った。年取ってすっかり弱くなって、もう、ヘロへロだよ。」 江利子は紹興酒をさらに注いだ。 「あら、社長さん、年とってなんておっしゃって、奥さんお若いんだからがんばっていただかないと。」 真樹は五十五歳、真樹の妻、時子は三十五歳である。 「無理だよ、もうがんばれない。年取って、何もかも惨めなもんなんだ。」 みんな、どっと、笑った。 真樹の妻は山根が大三郎に送った写真に一緒に写ってくれたアン・ルイス似の真樹時子である。 銀座のクラブのママだったが真樹と出来て、さんざん揉めたあげく、真樹が前妻と別れて後妻に迎えたのだ。 他のパートナーストアーのオーナー達も真樹と同じくらいの年代である。このエリアで化粧品店を数店経営している中井というオーナーが身を乗り出した。 「真樹、じゃあ、オレが引き受けようか?おれ、ファンなんだよ。マキのママさん。」 又、みんな、どっと、笑った。 真樹は紹興酒を飲みながら赤い顔をして言った。 「いや、おまえには無理だよ。うちのママさんは。」 中井はさらに身を乗り出して言った。 「オレはおまえと違ってまだまだいけるぞ。」 真樹はニヤニヤしながら首を振った。 真樹がこんなに酔っぱらうのは珍しい事である。 「そうじゃなくて、うちのママは山根君のファンだから無理だって意味。」 中井は酔っぱらっていた。 普段は商売熱心で頑固なオーナーである。今でも、山根は中井からは説教ばかりで褒められた事など一度もない。 その中井が今度は山根の方に身を乗り出してきた。 「なに、山根、おまえ、マキのママさんと出来てるのか?」 山根は真剣にあわてた。 「勘弁してくださいよ!出来てる訳ないじゃないですか!」 山根が真剣にあわてたのは理由があった。 化粧品セールスマンにとって「女」「金」「交通事故」は三大御法度事項である。 その中でも、化粧品の顧客である「女」が最大の御法度事項であり、さらにその「女」の中でも直接の顧客である化粧品オーナーの「奥様」は「最大の御法度事項」だと、山根は先輩から教えられていた。 余談だが、「最大の御法度事項」だと代々の先輩が代々の後輩に教えるという事は、その御法度を破る人間が代々存在するという事である。) だから、山根は真剣にあわてた。 山根は当然、時子と出来てなどいなかったが、そのあわて振りがあまりに子供過ぎた。真樹は山根のあわてぶりを見て大笑いしている。 江利子と山根の目が合った。 江利子はほんの一瞬きつい目をした。 山根はますますあわてて何かいいかけた。 江利子は山根をさえぎるように真樹に艶のあるハスキーな声で言った。 「どんな方かしら、社長の奥様って。」 真樹はまんざらでもない表情でニヤニヤしている。 中井が真樹に代わって答えた。 「いい女だよ。もと銀座のママさん、アン・ルイスに似てる。」 「アン・ルイスですか?ステキ。私、ファンなんですよ。」 中井は紹興酒を飲みながら言った。 「真樹、おまえ、写真持ってる言ってたよな。ママさんの。」 江利子は中井に紹興酒を注いだ。 「まあ、奥様の写真?拝見したいわ。真樹社長とツーショット写真ですか?」 中井は江利子が注いでくれた紹興酒を飲んだ。 「それが、持ってるって言うだけで勿体ぶって見せやしない。だからどんな写真か知らないんだ。」 真樹は酔っぱらってますますニヤニヤしている。 江利子は真樹の膝の上にさりげなく手を置いた。 「真樹社長、見たいわ。奥様の写真。」 真樹はますます御機嫌になって笑いが止まらなくなっている。そして意外な事を言った。 「しかしなあ、山根君、いいのかな、みんなに見せても。」 真樹はそう言いながら、ポケットから定期入れを出して中から写真を取り出していた。 そして、その写真をもったいぶって自分だけ見えるように笑いながら見ている。 真樹は江利子に注がれて紹興酒を飲みすぎていた。真樹は本来紳士な男で普通に飲んだ程度ならこんなに酔っぱらったりはしなかった。従って、酔っぱらって、この写真をみんなに見せる事など絶対になかったはずである。 一方、山根は真樹が持っている写真に何が写っているのか全く見当がつかなかった。 「え?いいのかなって、どういう意味ですか?」 真樹は自分だけ写真を見ながら、酔っぱらって、ますます笑顔になっている。 「ハハハ、だって、山根君も写ってるからさ。」 中井が又身を乗り出した。 「なに、山根、おまえ、やっぱり、ママと出来てたのか?どんな写真だ、温泉にでも行ったか?」 真樹は大笑いしながら手に持っていた写真をヒラヒラさせた。 山根は全く見当がつかずにますますあわてた。 「だから、出来てませんよ!勘弁して・・・・」 その山根のセリフが終わらないうちに、江利子は素晴らしいスピードで真樹の手から写真を取り上げた。 そして小悪魔的な笑顔を見せながら、さらに艶の利いたハスキーな声で真樹に言った。 「ね、社長、いいでしょ、拝見しても。」 右手に真樹から取り上げた写真。左手は真樹の膝の上。 真樹は一瞬黙ったが、理性より酔いが勝ってしまった。 真樹はさっきの笑い顔に戻って言った。 「いいよ、いいよ。どうぞ、どうぞ。」 江利子は真樹から取り上げた写真を見た。 その写真には「マキ化粧品店」のトイレが写っていた。トイレの中には段ボールのまま押し込まれたビキューの商品が写っている。そして、右手にマキのママ、左手に直立不動の山根。 今年の四月に大三郎に送った例の写真である。 大学時代に写真部だった友達に撮って貰った写真だけに定期券の大きさでも画像は鮮明だった。だからマキのママが持っている紙に書いてある文字も十分読めた。 『大好きな大三郎社長さんへ、早く返品取ってくれないと、わたしトイレにもいけないの。こまっちゃうな。』 紙の余白には無数のハートマーク。 さらに、山根が持っている表彰状もはっきりと読み取る事が出来た。 マキのママの魅惑的な笑顔。山根の真剣な表情。実に良く撮れた写真である。「押し込みは間違っている」という強いメッセージをこの業界にいる者全てがストレートに読み取る事が出来た。 江利子はしばらくその写真を見ていた。そして見終わった写真を中井に渡しながら真樹に言った。 「社長、奥様、本当におきれいな方ですね。」 山根は荻窪のオーナーと一緒にその写真を見た。 山根は一瞬で理解した。 この写真は確かに山根が時子に記念として渡したものだった。しかし、山根は時子がこの写真を真樹に渡し、さらに、真樹がこの写真を持ち歩いている事など知りはしなかったのだ。 中井は老眼鏡をかけて、この写真を見た。 時間はかかったが中井はこの写真が伝えたいメッセージを十分理解して、隣のオーナーに写真を渡した。 中井はいつもの説教口調ではない、やさしい口調で山根に言った。 「山根、この写真、清水さんに送ったのか?」 「はい・・送りました・・」 「おとがめは?」 「まだ、ありません。」 「ふーん」 中井は紹興酒の入った徳利を持った。 「山根、飲め。」 中井は山根と付き合って初めて山根に酒を注いでくれた。 山根はその紹興酒を一気に飲んだ。飲み終わった山根は江利子と目と目があった。江利子は、一瞬、周りを見た。 真樹は酔っぱらって中井と何か話しているし、他のオーナー達とパンチャーの女の子達はさっきの写真を見ている。 それを見て江利子はまた山根を見た。 再び二人の目と目が合った、と思ったその瞬間、江利子は小悪魔的な笑顔を山根に送ってきた。 そして、江利子は大きな瞳の片方を閉じた。 それはシャッター音が聞こえてきそうな江利子の魅惑的なウィンクだった。 こうして、「事件」は次の段階に移っていった。